● 『夜の鳥』 ●  text by Katsumi Takano



 深淵から、呼ぶ声が聞こえる。
 腐りかけた果実のように、爛れて甘く、魂まで融かされそうに熱い、
 昏い欲望に満ちた、あの声が。
 呼んでいる。

  ――あれが、わたしを呼んでいる。
  ――ああ、早く、ここから逃げなければ。

 急き立てる思いは、おののきに速まる鼓動となって胸を打つけれど、本当は今の自分に、あの声から逃(のが)れる術が無いことを知っている。
 ここは、ほんのりとぬるく、ぬめるような闇に包まれた、仄暗い水底。
 光の差し込む水面(みなも)は遠く、天を仰いでも、まなざしに映るものは果てしない闇だけ。

  ――早く、逃げなければ。
  ――けれど、何処へ?

 呼ぶ声が、また少し大きくなる。
 追ってくる。どこまでも。
 闇に手足を絡め取られ、身じろぐ自由さえ奪われた身体は、更なる深淵へと墜ちてゆく。
 溺れるものの懸命さで逃れようと足掻いても、やがていつも通り、あの腕に囚われる、虜の我が身。
 逆らっても、拒んでも、
 抗っても、叫んでも、
 はかない抵抗は容易く封じ込まれ、戯れに触れる熱い指から逃れることは出来ない。
 力強い腕に囚われ、ゆるやかに動く指先に追いつめられて、息が上がる。
 淫靡な睦言を囁きながらうなじを這う熱い唇が、時折つよく吸い上げる度に、身裡を走る甘い痺れ。
 けれど、誘う声がいかに甘くとも。
 もたらされる悦楽が、いかに抗いがたいものであっても。
 溺れてはいけない。流されてはいけない。
 いまにも崩れ落ち、快楽に跪(ひざまず)きそうになる心を奮わせ、愛撫する指を拒む。

  ――この身、いかに馴らされ堕とされようとも、魂まで屈しはしない。
  ――わたしは決して、おまえのものにならない。

 澱んだような闇の中、たとえ幾年(いくとせ)過ぎようとも、心まで囚われはしない。
 このままならば。
 そう、……このままならば。
 しかし、もしも。
 この腕の主と自分の関係が、今よりもう少し変わったものになったとしたら。
 果たしてこの腕を、拒むことが出来るのだろうか――?



 かき乱された呼吸の熱さに息苦しくなり、久神暁人は目を覚ました。
 荒い息をついて、怯えた視線を辺りに向けると、そこは八尋市から引っ越した後、暁人に新しく与えられた子供部屋だった。
 激しく上下する胸をほっとなで下ろした暁人は、乱れた呼吸を整えるため、大きく息を吐いた。
 閉じたカーテン越しに届く月明かりが、薄闇に沈む部屋をほのかに照らす。薄明かりに目を凝らして枕元の時計を確かめると、時刻はちょうど真夜中を越えたばかり。
 深夜、午前零時過ぎ。
 七歳にしかならぬ子供の暁人が、本来なら深い眠りのさなかにある時間。
 二週間ほど前まで、暁人と兄と両親が暮らしていた八尋市にある古い洋館ならば、この時間でも、主の眠りを妨げぬよう静かに立ち働く、住み込みの者の気配が感じられた。
 けれど新しく暮らすことになった屋敷に、家族の他に滞在する者は無い。耳を澄ませても、足音をひそめて歩き回る他人の気配はない。
(こわい夢、見た……)
 天井に映る、月明かりのもたらした影を見つめながら、ぼんやりと暁人は思う。
(あんな、こわい……)
 さっきまで熱く火照っていた身体に寒さを覚えて、暁人は思わず身震いする。
(……待って。僕、どんな夢を見たの?)
 冷え込んだ夜気が、寝汗に濡れる肌から急速に熱を奪って行く。
 いったい、どんな夢を見ていたのか。あれほど鮮明に眠りの中で暁人を苛んだ夢の内容を、今ははっきりと思い出すことが出来ない。
 曖昧な記憶の片隅に残るのは、ぬるく昏い水底の印象と、今も身体の奥に残る火照りの残滓。それから、暁人を呼ぶ“誰か”の気配。
 昏い昏い夢の奥底、誰かが暁人を呼び、そして暁人に触れていた。
 いったい、誰が?
 ……怖い。思い出せなくて怖い。
 でも、夢をはっきりと思い出すのは、もっと怖かった。
(助けて……こわいよ……)
 布団の下に頭まで潜り込ませ、震える小さな身体を丸めた暁人の脳裏に、閃くように兄の笑顔が浮かぶ。
 暁人とは七歳離れた、優しい兄、久神総一郎。
 幼い弟をいつも気にかけ、優しく面倒を見てくれる兄。館に越してきたばかりの日も、心細さにためらう暁人の手を引いて部屋まで案内してくれた。その後も一週間のあいだ、暁人が寝付くまで毎晩そばに居てくれた。
(にいさん、こわいよ……にいさん……)
 兄のことを想った瞬間、居ても立っても居られなくなって、暁人は子供用ベッドから滑り降りる。
 そして、音を立てないようドアを開いて、真夜中の廊下に裸足のまま踏み出した。



 使われない無人の部屋がいくつも続く、馴染みの薄い広い館。
 暁人は子供部屋の位置も兄の部屋の位置もすっかり見失ったまま、そこで迷っていた。
 暗がりが怖くて、目をつむって走り抜けた場所がいくつかあったせいだろう。気がついた時には、自分がどこに向かっているのか、さっぱり分からなくなった。
 途方に暮れ、心細さに泣きそうになりながら、これで何度目になるのか、暁人は目の前に現れたドアをそっと開く。
 夜に向かって開かれた窓から、音もなく月光が射す、静謐に満ちた部屋。
 灯りの消された室内は、ほの白い月光に照らし上げられて明るい。
 誰も居ないと思った部屋の中央に、小柄で少女めいた母の姿を見つけて、暁人は小さく驚きの声を上げた。
「おかあさん……」
 暁人と総一郎、二人の兄弟の母親が、冷ややかな月の光を全身に浴びて、大きな椅子に背を凭せかけた力ない姿勢で座っている。
 陶器めいて整った母の若々しく美しい貌は、白く凍りついて表情がない。
 黒いガラス玉みたいな双眸は、ただ窓外に皓々と照る月を映して動かず、長く艶やかな癖のない黒髪が、椅子の背もたれに滝のように流れ落ちている。
 遊びに飽きた子供にうち捨てられた人形のように、精気のない母。
 生者には見えぬその姿に、暁人はそれ以上、声をかけることが出来なくて立ち竦む。
「――おまえも私と同じね、暁人」
 こちらを向かない母に名を呼ばれ、暁人はびくりと肩を揺らす。
 夜空高く、真円に満つる月。
 その月に魅入られたように目を離さぬまま、淡々と言葉を紡ぐ、青ざめた母の横顔。
「哀れな、かわいいお人形。男たちの欲望を満たすための道具。……心なんていらないの」
「おかあさん……?」
「あの人は心なんて求めない。だって、私たちは人形だもの。人形には心がない。だから、あの人は初めから、そんなもの求めない」
「おかあ……さん……」
「人形になれば、楽になれる。人形になれば……」
 母が暁人に何を伝えようとしているか理解できないながら、言葉に込められた、母の身を切るような嘆きの深さは感じ取れた。
 母の苦しみを少しでも除きたくて、暁人は懸命な想いを込めて呼びかけた。
「おかあさん、どうしたの……? 僕に教えて、おかあさん……」
 祈るような暁人の声は、けれど、おのれの闇だけを見つめる母の心に届かない。
 振り返らない、深い淵のような双眸を見上げて、暁人はこれまで何度も母に対して覚えてきた無力感をふたたび味わう。
 母が息子である暁人や総一郎に対して、優しく柔らかな母親らしい想いを向けてくれた記憶はほとんどない。物心ついて母に抱かれたことがあったかも、思い出せない。

 ……違う。
 思い出せないのは、そんなひと昔まえの記憶だけではない。
 本当は――

 今日まで触れないよう固く封じて来た、不安の蓋をこじ開けそうになって、暁人はぞっと身震いする。
 思い出せないのは、夢や、幼児期の記憶だけではない。
 それだけではなく、暁人はもっと大切な――
「――違う、私は人間だわ。私は人形なんかじゃない……!」
 突然、夜気を裂いて響いた母の強い声に、物思いを破られた暁人は目を瞠る。
 アームレストにきつく爪を立て、怒りに睫毛を震わせる母。先刻までの精気のなさが嘘のような、青白い怒りに包まれたその姿は、恐ろしくも綺麗だった。
 圧倒されて言葉を失い、暁人は呆然と母を見つめる。
「私の想いも知らないで、力ずくで、私から何もかも奪ったあの男。許さない……絶対に許さない。夫だなんて認めない……」
 その時、ようやく初めて振り返った母の視線が、暁人の姿を捉える。
 怒り、憎悪、憐憫、愛情、――
 あらゆる想いを綯い交ぜて、不思議に混沌とした彩りを映す、母のまなざし。
「……哀れな子ね、暁人」
「あ……」
「何も知らない頃のように、おまえを愛せれば良かった。でも、私はそんなに強くなれない。いつか失うと分かっているものを、愛するなんて出来ない」
「おかあさ……」
「……お行きなさい、暁人。おまえを見ていると、この家から逃げられない自分の運命を突きつけられてるみたい。見たくないの。だから、出て行って」
「え……」
「お行きなさい――早く!」
 斬りつけるような、母の叫び。
 母の激しい感情の発露に耐えきれず、暁人は部屋を飛び出した。
 弾かれたように駆け出した暁人の背中を、苦しみに満ちた母の呟きが追いかける。
「どうして、私はあの男を憎めない? あんな……あんな男なのに……」
 耳を塞ぎたくなる深い怨嗟と哀しみを帯びた、か細い声。
 あの声を聴くことに耐えられなくて、暁人は脇目もふらず走る。
 母が何を言ったのか、幼い暁人にはほとんど理解できなかった。けれど、暁人を厭うているらしい母の心だけは、痛いほどに伝わった。
 母が自分を疎んじていることが哀しくて切なくて、暁人の頬を涙がこぼれ落ちる。
 涙で視界がにじんで、よく見えないまま夢中で走ったから、廊下を曲がった出会い頭、衝突するまで相手に気がつかなかった。
 壁のように廊下を塞ぐものにぶつかり、弾かれた反動で尻餅をつきそうになった暁人の右手首を、誰かの指が鷲掴む。掴まれたまま腕を引かれ、暁人は転ぶのを免れる。
 しかし、暗がりからのばされた大きな手に、逆らえぬ力で囚われたことを知り、暁人は恐怖のあまり声もなく凍りつく。
「おまえ、暁人じゃないか。こんな時間に何をしている」
「お……おとうさん……」
 頭上高く呟かれた言葉に息を呑んで見上げると、父、久神政継が、眼鏡のレンズ越しの冷たいまなざしを細め、食い入るように暁人を見ていた。
 強ばって動けない小柄な身体をたやすく引き寄せ、政継は空いた指で暁人の顎をきつく掴む。砕かれそうな力に動きを制され、暁人は息も忘れて父を凝視する。
 政継は腰をかがめ、まるでのしかかるような体勢で暁人をのぞき込むと、厳しい口調で問いかけた。
「おまえ一人なのか? 総一郎はどうした」
「あ……あ……」
 黒い影を落とす、背の高い父の姿に圧倒され、暁人の心臓が早鐘のように激しく打つ。極度の緊張のためか、水中に沈められたように、耳に届く音が遠く聞こえる。
「――どうした、暁人。早く答えないか」
 凍りついた喉から声が出せず、暁人は父の言葉に答えられない。
 待っても返事のないことに腹を立てたのか、政継は苛立った声を荒げ、暁人を掴む指先にぐっと力を込めた。
「いた……!」
 痣になるほど強く手首を握り込まれ、その痛みに、暁人は思わず悲鳴を上げる。
 痛みに怯えて青ざめた暁人の表情と、掴まれた腕が伝える小刻みな震えに気づいたのか、父の視線に、優位に立つ狩人が獲物に向ける、残酷な愉悦と嗜虐が混じる。
「……おまえ、私が怖いのか? 震えているじゃないか」
 政継は目を背けたくなる意地の悪い笑みを浮かべ、毒を含んだ甘い猫なで声で、暁人に優しく囁きかけた。
「痛いよ、おとうさん……」
 苦痛と恐怖に声を震わせながら、暁人はおそるおそる父に訴えた。
 けれど、ひどく怯える小さな息子の姿に嗜虐心を煽られたのか、政継は離すどころか、暁人の細い左手首をもその指先に捕らえる。
「い……」
 父に両手首を捕らわれた頼りない姿勢で、暁人は腕を高く吊り上げられた。痛みに喉をあえがせる暁人の目尻から、新たな涙がこぼれ落ちる。
 痛みに声もなく涙をこぼす、いたいけな暁人の表情を間近に窺いながら、政継はごくりと音を立てて息を呑む。
 頬が触れそうなほど顔を寄せると、政継は暁人の耳に吐息を吹きかけ、熱を帯びてかすれる声で低く囁いた。
「……来い、暁人」
 声の中に含まれた妖しい響きに本能的な危険を感じ取って、暁人は必死にもがく。
「や……だ、離して、おとうさん……!」
「逆らうな、暁人。おまえは黙って私の言うことを聞けばいい」
「やだ……!」
「私に逆らうつもりか、暁人!」
 思いがけない抵抗に頭に血を上らせ、父は暁人の左手首を掴む腕を離して身構えた。父の手に頬を打たれる予感に怯えて、暁人は身を竦ませる。
 しかし硬い手のひらが暁人の頬を打つ前に、政継の背後からのばされた腕が、振り下ろされる直前の右腕を掴み止めた。
「大事な弟に手を上げる暴挙は、親といえど見過ごせない。やめて貰いましょうか」
「総一郎……!」

 危ないところで父の手から暁人を救ったのは、先ほどまで暁人が懸命に捜し続けた兄、総一郎だった。思いがけない再会に、暁人は呆然と兄を見上げる。
「にいさん……」
「大丈夫だったか、暁人」
「う、うん……」
 驚愕に顔を歪める父親に、総一郎は冷ややかな笑みを返す。
 弟を打つ力を失った腕に興味を無くしたのか、総一郎はさっさと父の手を解放して身を引き、優しい声で暁人を呼んだ。
「おいで、暁人」
 父に向けた冷たい表情が嘘のように、柔らかな兄の笑顔が、暁人を招く。
 ゆるんだ父の指を振り解くと、弟を迎えるためくつろげられた兄の腕の中へ、暁人は頭から飛び込んだ。
 総一郎は体当たりのようにぶつかってきた弟の身体を楽々と受け止めて、そのまま軽い荷物を担ぐように肩に抱き上げた。長身とはいえ、その細身から想像がつかない総一郎の膂力に、気を呑まれたように言葉をなくして、政継は黙り込む。
「暁人の面倒は俺が見ます。あなたの手を煩わせるまでもありませんよ――お父さん」
「く……」

 政継は音がするほど奥歯を噛み締め、射殺しそうな視線でおのれの血を分けた息子を睨めつけると、そのまま言葉もなく背を向けた。
 怒りのみなぎる肩をそびやかし、足音も荒く、父はその場を後にした。
 暗い廊下の奥、怒りに満ちた父の背中が完全に消えたことを見届けて、ようやく暁人は止めていた息を吐いた。
「行こうか、暁人」
 励ますように暁人に微笑みかけると、総一郎は小柄な弟を肩に担いだまま、暗い廊下を歩き始めた。



 兄に連れて来られたのは、暁人の子供部屋ではなく、先刻まで暁人が求め続けていた、兄の部屋だった。
 暁人を自分のベッドの上に座らせて、総一郎が問いかけた。
「暁人、どうしてこんな時間にあんな場所にいた? 子供はもう寝ているはずの時間だ」
 兄の声に少し咎めるような響きを感じて、暁人は小さく身を竦める。
「ごめんなさい……」
「怒っているんじゃない。ただ、子供が一人でこんな時間に出歩いていると危ない。今度から気をつけた方がいい。――今夜は、どうして?」
「へんな夢を見て、こわくて……にいさんに会いに来たの。でも、僕、にいさんの部屋が分からなくて……」
「……暁人、おまえもしかして、俺の部屋を探して迷ったのか?」
「……うん……」
 暁人が恥ずかしさに頬を赤らめてうなずくと、総一郎はこらえきれないように、声を上げて笑い出した。
「にいさん、ひどいよ。笑わなくても……」
「いや、済まなかった、暁人。おまえはまだ、新しい家に慣れていないんだったな」
 まだ愉快そうに肩を震わせ謝る兄の様子に、ようやく暁人の緊張が解ける。
 父とのことで隅の方に追いやられていた不安が、気が緩んだ途端、ふたたび暁人の胸の真ん中に戻ってくる。
「……にいさん。どうしておかあさん、僕のこと嫌いになったのかな」
「暁人……」
「おとうさんも……」
 狂おしいほどの熱情を帯びて、食い入るように暁人を見つめる、父の視線。
 あの熱っぽいまなざしを思い返すと、理由の分からない危険を感じて、怖くなる。
「おとうさん――こわい。おとうさん、僕を見ると、いつもすごくこわい目をするの」
「――そうか……」
「ねえ、にいさん、どうしてなのかな……?」
 何か、暁人に分からぬ理由のせいで、暁人を愛そうとしない母。
 暁人を見つめる父の視線は、どこか恐ろしい熱を含んで落ち着かない。
 結局、暁人が心からくつろげるのは、兄の傍らにいるときだけ。
 ただ兄だけが、小さく無力な暁人を、無条件に守ってくれる存在だったから。
「にいさんだけだよ、僕とお話ししてくれるの……」
「……暁人……」
「でもね――にいさん。僕ね、にいさんの他に、僕とお話ししてくれた子がいた気がするの。このお家にくる前だよ……」
 暁人は小さく呟いて目を閉じると、自分の中に残されたかすかな痕跡を追う。

 明るくて朗らかで、聞いているこちらまで楽しくなる男の子の笑い声が、残響のように遠く、かすかに瞬いて消える。
 ――あれは誰? あの子は誰なの?
 屈託のない子供の笑顔を求めて記憶を辿ってみたけれど、ぽっかりと穴が空いたように、その子のことが思い出せない。
 ほんの少し前に、暁人はあの子ととても大切な約束を交わした。
 それは、決して忘れてはいけない、忘れたくない約束だったはずなのに、すべて跡形もなく消えてしまった。記憶の扉は重く閉ざされ、暁人が何度叩いても開かない。
 まぶたの奥に残る、あたたかな光と、眩しい笑顔。
 二人で交わした大切な約束。
 思い出せない記憶の欠片が、忘れてしまった暁人を切なく責める。
 大切なことを思い出せないもどかしさが、切ない痛みとなって胸を刺す――

「にいさん、僕、苦しい……痛いよ……」
 泣きじゃくり、懸命に訴える暁人の身体を、総一郎は軽々と片腕に抱き上げた。
 困った表情で小さな弟と視線を合わせ、優しい声でそっと問う。
「どうした、暁人。どこが痛い?」
「……ここ……」
 暁人は濡れた頬をぬぐう手を下ろし、薄い胸に当て、涙に潤む瞳で兄を見上げる。
「がんばって考えると、ここがぎゅっと痛くなるの。きっと僕が大事なこと忘れちゃったせいなんだ……」
 言いながら、また新たにあふれ出した涙が、暁人の頬を伝ってこぼれ落ちる。総一郎が無言のまま、指先で暁人の涙をぬぐってくれた。
「……どうして思い出せないのかな。すごく前のことじゃないのに。にいさん、僕はどこかおかしいの? だって、前のお家のこと考えると、頭が痛くなるんだ。それに……」
「……それに、どうした?」
「……こわくて……嫌なの。思い出すの……」
 大切に抱きしめていたい記憶は日々薄れてゆくのに、思い出そうと懸命に考えるとよみがえる、別の記憶。
 ……気持ち、わるい。
 忘れた記憶を思い出そうとして、いつも真っ先に浮かぶのは、あの子のことではなく、例えようのない不安と不快感を伴う『研究所』のこと。
 『研究所』と呼ばれる場所に連れて行かれた後は、いつもひどく疲れて身体が辛かったことを、暁人は覚えている。
 いったい、『研究所』がどういう場所だったのか。
 そこで自分の身体に、何が行われていたのか。
 その詳細を思い出すことは出来ない。
 かすかに憶えているのは、投薬で意識が混濁し、朦朧と動けなくなった小さな身体を、遠慮もためらいも無く、いいように扱う大人たちの無慈悲な腕。
『……何をしても……』
『……どうせ、この子供は……だから……』
『……少しくらい酷くしても……』
『……構やしないさ……』
 途切れ途切れに聞こえる会話も、暁人への思い遣りなど欠片も伝わらない、冷ややかで無慈悲なものばかり。
「こわい……思い出すのが、こわいよ……」
「忘れなさい、暁人。それはきっと悪い夢だから。……全部、忘れておしまい」
「わるい……ゆめ……」
「俺がそばにいる。俺がおまえを守る。哀しい夢は忘れておしまい」
 ためらいに揺れる暁人の瞳を、総一郎は強いまなざしに捕らえる。
 ゆっくりと噛んで含めるように言い聞かせる、優しい響きを持った兄の言葉。
 真っ直ぐ見つめるその瞳には、小さな弟へのいたわりが見える。
「消えてしまったのは、きっとそれが、おまえにとって良くないものだったせいだろう。だから、忘れてしまって構わないんだよ、暁人」
「良くないもの……」
「慣れない環境に移ったから、不安になってそんな夢を見たんだろう。しばらくすれば、そんな夢も見なくなる」
 兄の言葉が安寧をもたらす呪文のように、暁人の心に穏やかに染み通る。
 ずっと頼りにしてきた兄にそう言われると、兄の言う通りかも知れないという気持ちになった。
「忘れてもいいの……?」
「ああ。――さあ、もう子供は寝る時間だ。朝が来るまで、ここでお休み」
「にいさん、僕といてくれる……?」
 また怖い夢を見てしまったらどうしようと、不安になって兄に問いかけると、
「ああ、ここにいるよ。おまえが目覚めるまで、ずっと」
 求める通りの答えが返ってきて、暁人はやっと心からの笑顔を浮かべた。
「良かった……! にいさんがいてくれたら、こわい夢も見ないね」
「そうだな」
 答えを返しながら、総一郎は弟を寝かしつけるため、抱えた身体をそっと自分のベッドに横たえた。
 暁人が寝やすいようにと、枕を低く整えたり、布団の位置をずらしてくれる。
「朝はまだ遠いから、ゆっくりお休み、暁人」
「うん。おやすみなさい、にいさん」
 信頼する兄が見守る安堵感に、暁人はほっと息をついて力を抜く。
 兄の指先が肩にかかる布団を優しく整えてくれるのが嬉しくて、暁人は小さな笑い声を上げた。
 夜明けの光はまだ遠くて、小さな暁人にはまどろみの刻限は果てしなく長く思える。
 けれど今夜はもう、きっと怖い夢は見ない。
 兄が傍にいてくれるから。
 誰よりも暁人を安心させるあたたかな腕の中で、暁人はふたたび眠りの態勢に入る。
 総一郎は暁人の前髪を優しくかき上げると、静かな声でそっと囁いた。
「お休み、暁人。……よい夢を」



  その夜は、もう夢を見なかった。
  怖い夢も。
  哀しい夢も。
  みんな忘れてしまった。
  そう、みんな――忘れてしまった。



  夜明けの暁光は、遙かに遠く。





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