精霊魔術士リヒト・ブロイエが、真名瀬唯(まなせ・ゆい)の姿を初めて生で見たのは、彼が所属する魔術組織の催す祭典の壇上だった。
唯は、壇上から魔術士たちに語りかける《祭司長》のすぐ隣に、すっと背筋を伸ばした綺麗な姿勢で立っていた。
唇を固く結び、厳しい視線を聴衆に向け、《祭司長》に害意を向ける者を威かくするように堂内をにらみ据える、ひどく小柄な少年の姿――それは、いまだ羽の生えそろわぬ雛鳥が、精一杯に幼い翼を広げて大切なものを守ろうとしている姿だった。
魔術組織の看板として組織を背負って立つ、たぐいまれなる魔術士・《祭司長》エルネイ・アウシュロスと、その養い子・真名瀬唯。彼ら二人に関する噂は組織内でも常に人気の話題であり、リヒトもこれまで様々な人の口を介して唯のことを聞かされて来た。
いわく、真名瀬唯は後見人を務める《祭司長》の身贔屓によって、分不相応の地位を得た。本当の実力など怪しいものだ。
いわく、真名瀬唯は《祭司長》を操り、組織の長たる地位に就こうとしている。
(……どいつもこいつも、くだらない噂ばかりだ)
悪い噂を流した人間たちの愚かな心情を思い遣り、リヒトは彼らを鼻先で笑う。
流された噂はどれも、まだ年若い唯の秘め持つ『力』に対する妬みが言わせたものだと容易に察せられた。噂が本当かどうかなど、こうして先入観や妬みに曇らされることなく唯本人を見れば、少しでも目のある者なら一目で見抜ける。
そう、無責任に流れる噂ほど、あてにならないものは無い。
自分と同い年の少年の実力に、リヒトも以前からひとかたならぬ興味を抱いてきたものだから、唯の姿形はすでに写真で見知っている。だが、無味乾燥な情報として知るのと、同じ場の空気を吸うほどの至近距離で実際に本人を目にするのとでは、随分と受ける印象が違うものだと思う。
写真の中の唯は、常に彼が付き従う《祭司長》から一歩引いた位置に身を置いていた。その姿は、捉えようによっては、《祭司長》を矢面に立たせておいて己は安全な威光の陰に隠れる、怯懦な姿勢と見えなくもない。
けれど、こうしてリアルの唯を見ると、彼が何を守ろうとしているかなどは、一目瞭然。よほどの偏見を持って見ない限り、彼が《祭司長》を害したり利用しようと考えていると、とても見えない。
――真っ直ぐな瞳だ。
唯一の大切な存在を守ることに全てをかける、ひたむきな瞳だ。
それ以外の生き方を知らない瞳だ。
唯はあくまで控えめに、《祭司長》を引き立てるようにと配慮した位置に立っているのだろうが、それでも印象的にリヒトの目を惹きつけた。いや――おそらく凛とした少年の立ち姿に気を惹かれたのは、リヒトだけではないはずだ。
唯の発する雰囲気のせいだろう。
強い意志を感じさせる彼の視線には、向けられると思わず襟を正したくなるような清冽さがある。少しでもやましいところのある人間なら、あんな瞳で見下ろされたらさぞかし落ち着かず、居心地の悪い思いをすることだろう。
現に、壇上の唯と目が合った瞬間、後ろめたい心根を隠すように思わず視線を逸らす幾人かの姿があることを、リヒトの瞳はしっかりと捉えていた。
キリキリと今にも的を射抜かんとたわめられた弓弦のように、あやうい緊張の下に立つ、張りつめた唯の心。何より強いような、けれど意外と脆いところもありそうなそれを、支えてやりたいと思う者がいるだろう。
だが、リヒトの場合は――
「……思いっきりかき回して、泣かせてみたくなるんだよな」
「――? 何か言ったか、リヒト?」
面白がるような、どことなく性質の悪いその呟きを耳にした同僚が、訝しげにリヒトに問いかける。
「別に。なんにも」
リヒトは彼の習いとなった掴み所のない笑顔を返すと、肩をすくめて何でもないように答えてみせた。煙に巻かれて首をかしげる同僚からさっさと目を離すと、リヒトはふたたび壇上の唯に視線を戻す。
政敵に弱みを見せまいと、張りつめた表情と射るような視線で壇上に佇む小柄な少年。リヒトより遙かに小さなその背を、真っ直ぐに伸ばして聴衆を見据える少年の姿は、だが決して弱々しいものではない。
初めてこの目で確かめた『真名瀬唯』は、リヒトが想い描いていたよりもずっと面白そうな奴だった。いつか、こんな遠くからこちらが一方的に見るのでなく、彼の前に立ち、あの瞳に自分の姿を映し込ませてみたいと思う。
こうして同じ組織に身を置くのだから、彼と間近にまみえる機会の訪れも、そう遠くはない筈だ。リヒトはただ時を待てばいい。
その日は来る。
いつか、きっと。
「ま、それまでは、サボりすぎて追い出されないよう、せいぜい任務に励みましょうか、と」
「――おい、リヒト。さっきからお前、何を呟いているんだ?」
「いや、何でもないって。いいから、気にしない、気にしない」
にやりと、いかにも何事か企む笑顔を返して、リヒトは同僚の肩をなだめるように軽く叩いた。妙に機嫌の良いリヒトの態度に不穏なものを感じたのか、リヒトを見返す同僚の眉根が寄る。……それでもリヒトは笑顔しか返さない。
「ああ、もう! 何なんだよ、お前は……」
根負けした様子でため息を吐く同僚の肩を、今度は素直に笑いながら、リヒトはもう一度叩いた。
さあ、覚悟しておくがいい、真名瀬唯。
その日が来たら、オレはきっとお前を振り回すから――
その時を心待ちに、リヒトは二人の間に横たわるこの距離を、今はただ静かに楽しんだ。
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